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重みのある30年(ゼロの人生 最終) 

カテゴリ:ゼロの人生

60才で保険会社を退職した父は萱ぶきの古い生家へ戻った。
そこからが父の人生の出発だった。
病床にあって考えた(というよりも、頭にひらめいた)人間誕生の根源である感情の基本形とそこから発せられる言葉の研究、そして屋敷の敷地内から出土した人間の顔をした石ころの研究。
父は、自分の世界にどっぷりと入り込み、憑かれたように死の直前までこれらの探求を続け、そこにすべてを注ぎ込んだ。

その頃の心境をゼロ人生に次のように書いている。(父が65才の時書いたものです)


重みのある30年
        
私は人生の幼稚園をヤットコスットコ終わったようサ。
これからが1年生だネ。
これから30年あるヨ。
これは全く限られた30年で実に重い年月だけどサ。
さて、どこまで出来るかねェ、10年あれば一仕事できると考へてネ、何かそれをやろうサ。
妻は裁縫をしてゐるヨ。
子供たちも一切、他人の噂さへも私に告げ口したことがないしネ、これが私のゼロの人生のひとり天狗を支えてくれたのかナ。
私は人生を、これから初めようとするヨ。

(1974.2.28)

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若は風に向かひ 老は風に従ふ


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後期ペンの日50才(ゼロの人生-6) 

カテゴリ:ゼロの人生

昭和29年、病気が回復した父は、不動産関係の事業に手を出して失敗。
我が家は困窮を極めた。
このため私は中学を卒業するとすぐ就職し、夜間定時制高校へ通い、18才の時単身上京した。
その後は数年に1回程度しか郷里には帰っておらず、その当時の父母や兄弟の様子はあまり記憶にはない。

何年か後に郷里に帰った時には、先祖伝来の田畑の多くが人手に渡っていた。
事業の失敗の処理のために売却したようだ。

これらについても「ゼロの人生」に記されているが、ここでは割愛する。

その後父は50才で生命保険会社へ就職、それからの10年間を保険外交員として過ごした。
それが、父の生涯でのたった一つの定職となった。
そして、保険の外交の傍ら、病床にあって考えたこと(というよりは頭に飛びこんで来たこと、ひらめいた事といった方が適切かもしれない) を原稿用紙に書き綴る毎日となった。     

「ゼロの人生」に「後期ペンの日50才」として次のように書いている。
     



昭和34年、50才、保険を初めた頃から、原稿用紙を持ッてゐない日がなくなッてネ、書く趣味が又出てきたんだろうナ。
私のはもはや文学とか文芸ではないョ。
学とか芸とか言ふものは、磨きをかけなけらばならんと思ふけれど、私にはもうその年限が無いヨ。
どうせ人間は自分がはめこまれた鋳型をくッちゃべってゐるほかないと思うから、私も自分の鋳型にしゃべらせて歩き初めたんだナ。
      
そして、その頃執筆したものを、「生命光体」として昭和38年に自費出版。
その「後記」に次のように書いている。
          
私のいひたいことは、そうではない。
あなたが考えてゐることとはだいぶちがふ。
南米アマゾンの上流の密林の中に、1人の人間が生まれた。
その人は、外敵から自分を守るために、いや、自分のものを外から見られないために、私のいふ「守備」するために、自分のまはりを、木の枝や草の葉をつかってしきりを作るにちがひない。
その形は△かかをこしらへたにちがひない。
そして、雨をしのぐために八型の屋根をのっけたろうとおもはれる。
生物は、十心型の組み合わせをこしらへることより能がないのだ。(略)
         
       
ところが、この南米とはまったく離れた中国の山の中に、1人の人が生まれたのである。
これもやがては、自分の場所を、水や塵や雪から守るために、自分のまはりへ囲ひをつくった。
その形は、や△やであったにちがひない。
そしてその上には八型の屋根をのっけて、雨雪をながすことにしたと思われる。
この南米の人と、中国の人とは連絡したわけではない。
地上におりた神さまは、この地上の現象から、9つの心型だけの材料になることを強ひられたにすぎないから、どこの国にうまれようと、みんな似たような住まいを考え出すより能がなかったとみるのが、私の世界語分析の原則である。
どこで生まれた人でも、こしらえるものは10心型を組み合わせたもののはずだ。
その組み合わせ方に違いがあるだけで、材料は9つより持ち合わせがないのである。
コトバの形もまた同じである。(以下略)


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病に臥しての不思議体験から生まれた「50音感情の正体」(ゼロの人生-5) 

カテゴリ:ゼロの人生

昭和20年2月、父は伊達の生家へ戻った。
私が4才の頃である。
その頃東京や横浜にいた親戚が、伊達に疎開してきて、私の家(父の生家)の納屋などに居住していたことや、飛行機が飛んでくると皆急いで防空壕へ避難したことなおをボンヤリと覚えている。
昭和20年8月、終戦を迎える。
父の健康は小康状態を保っていたようで、養鶏や野菜作りなどの農業を営む傍ら、治療師としての活動も続けていたようであるが、昭和26年の秋より再び病気で倒れ入院。
精神神経系の病気らしいのだが、当時としては原因不明で医学的には病気として認知されなかったらしく、2カ月で退院させられた。
その後、自宅で室内を真っ暗にして寝たきりの状態が続き、自殺未遂のようなこともあったようだ。
その頃の様子を「ゼロの人生」に次のように書いている。


9月に退院したが、間もなく夜急に目の前がかすんできて、あ、もう俺は立てない、だめだナ、とくずれると、そんなことを言わないでと妻たちがとりすがったのを覚えて、それッきり、ガックリと床についてしまッたのだナ。
極度に全身の神経が弱ったようでネ。
部屋は夜も昼も暗くしてあるしネ。
骨と皮ばかりなのに、それでも寝返りして、夢ばかり見ているのサ。
よくもこんなに奇妙な夢が切れずに出てくるもんだと、みてたネ。
眠ッたのか眠らないのかわからないようで2年間、夢、夢、夢ばかりでネ。
その夢が、30才台から20才台になり、10才台になり、5、6才の思いでまで出てきて、だんだんと出生の方へ逆戻りするのだよ。
そのあとになると、自分の葬式があらはれたり、天空から舞い降りたり、巨人たちの行列が映ったり、キラキラと光る皮が流れてゐる夢などでネ。
そこまできたら、この世から脱出していくことを真剣に考えはじめてゐるんだヨ。


(そこで、自殺を企てるが、未遂に終わる)


そのとき、ハッと我にかへッた、正気に戻ッたのだろうナ。
そのことがあってから、なるようになれヨとなッて、食ひたいものを食ひ食ひたくなければ食はず、薬も神もトックに捨てた、死のうと生きようと一切関係なしだナ、という気分で臥ていたナ。
ところが神経が生きるほうへと帰りだしたようだったネ。
44才の春だネ。
枕元にある新聞を薄明かりの中で手にして見た。
ある日うすうすながら、字が見えてきたのサ。
1ケ月ほどして字が読めるようになってネ。
エンピツで字を書くようになった。
ここからだヨ。
100枚か200枚か、ねてゐて考へてゐたことを、臥たままでつぎつぎと綴りだしたヨ。


この時書かれたものが、後の「生命光体」となったのである。
50音感情の正体なる不思議な研究も、病床にあったときに天啓のごとく頭に入ってきたことが元になっているようだ。


楽天的金銭哲学 (ゼロの人生-4) 

カテゴリ:ゼロの人生

父シブヤ シゲヨシは昭和11年、26歳の時伊達の生家を出て室蘭に借家を借りて治療院を開業。
その後、小樽、岩内、東室蘭と転々としたが、戦争のため昭和22年に伊達の生家へ戻った。
その間の生活は、決して豊かなものではなく、「食べて行ける程度」といったものであったようだが、そんな中で父独自の楽天的金銭哲学というべきものを身に付けたようだ。
「ゼロの人生」に次のように書いている。 

人間は食へるようになッてゐるもんだとゆふことを、覚えたネ。
晦日がくるでしョ。すると商店から書きだし、精算書だネ。それが来ると、服のソッチコッチから金を集めてみるとネ、ちょうど間に合うんだヨ。
そして、それだけより無いのサ。
さて、あしたからどうして暮すかなァ、と思ッてゐると、1日か2日たつとお客さんがコンニチハと入ってくるわけだネ。
そしてその方が、3日分とか1週間分とかの治療代をおいていくんだよネ。
そうゆふことが幾度かあってネ。
ナルホド人は食えるようになッているもんだと思うようになったネ。
    
だから、困る困ると言ふ人を見ると、奥さんヨ、あなたは、3日メシを食はないから飯を食べさせてくださいと言ッて来た人何人ゐましたか、お正月がやッてくればヤッパリ一升ビンなど斜めにして騒いでゐるでしヨ、困ることなんてめったに無いんですョ。
いよいよになると金を工面してくれる人が来たり、突然仕事が見つかッたりネ、と言ふようになッたヨ。
 

この「金は、必要な時に、必要なだけ入ってくるように出来ていうものだ」という奇妙な自信で父は貧乏をものともしない楽天的な人生を送ったようです。
昭和12年に結婚したが、初婚の相手は、結婚後間もなく肺結核にかかり1年後には死亡。

昭和15年に再婚、昭和16年に長男(私)が誕生した。
結婚後は私の母が裁縫で家計を支えてきたようだ。


昭和15年今の妻が来て、これはトンデモナイところへ来たと思ッたろうナ。
妻の話によると、ナンデモずゐぶんうまい名文を書き送ッたらしく、それから30余年一緒にいるわけだからねェ。
嫁に来て1月後には裁縫をしたとゆふからネ。
16年、岩内で上の子、18年東室蘭で次の子が生まれたのサ。
18年には妻の母のゐた樺太へも行ッてきているし、おそらく生活するのに精一杯の内情だッたろうが、本人は一向に呑気なあんばいに過ごしてきた記憶よりないのだヨ。

前期療法の7年(ゼロの人生-3) 

カテゴリ:ゼロの人生

父は昭和4年に旧制中学校を卒業すると、大学進学のため上京した。
当時農家の長男が、大学に進学するなどは非常にめずらしかったようだ。
しかし、上京後間もなく病気になり大学生活は頓挫して、帰郷を余儀なくされてしまった。
そのときの様子を「ゼロの人生」で次のように書いている。


前期療法の七年
      
昭和4年に卒業して上京した頃、私は神経衰弱気味だったらしいのだネ。
そして、その秋には、神田駿河台に「目と神経衰弱」の著者の医院があってネ、私はそこへかかったのサ。
ここでは、メガネで万病を治す理論を施療にしてゐるらしいヨ。
近眼の私に度の弱い凸レンズ、まあ、老眼鏡でしョ、それをかけさせたと思えたネ。
その頃博士といえば神様のように思えたでしョ。
必ず言いつけを守って治そうとネ。
私はその老博士のメガネを徹底的に、しかも2年間も、眠るとき以外は絶対にはずさないとゆふ、まことに強い意志でかけつづけるとした信者になってしまったのだネ。
メガネをかけてから間もなく頭もボンヤリしてきてサ。
そこで私は生家へ帰ったのだョ。

家へ帰ってからネ、ハガキを書くとネ、「拝啓ごぶさたしました」と書いて、次の行へ移ると、もう前に何を書いたか分からないんだョ。
1年ばかりのうちは、何を食べても塩ッぱいのか甘いのかよく分からないんだョ。
ちょうど頭が消えているようで、ハッキリしないんだョ。

目の奥の方が針でゑぐられるように痛いんだョ。
1年たっても、2年たってもその痛さと、一間先がボンヤリとしか見えないのと、歩けば膝がチクチクして、食も細いし、すぐに疲れるんで、何にも出来ず、正に、ブラブラと、フラフラとして、それでも朝になると目がさめてネ、生きてゐるナと思ひ思ひしたのさ。

街の医者に行っても、原因がわからず、自分で玄米食を食べたり、民間療法を試みたりしたようです。
そしてある日、「本を読めば病気がなおる」という谷口雅春の「生長の家(宗教)」のパンフレットを見て、「月刊生長の家」を読み、これに影響されて養鶏をしようと思い立ったのです。
鶏の世話をしているうちに、少し体調が良くなったようですが、畑仕事ができるような体ではなく、その後伯父より多額の援助を得て大々的にキノコの栽培を手掛けたが、これに失敗したことを契機に、家を出ることを決心。


このとき(キノコが全滅した時)心機一転、私は三つ下の弟に家をまかせて、飛び出したネ。
それは26歳の冬サ、私は室蘭に小さい一戸を借りて白衣を着て、紅療院という看板をかけたナ。






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